敵討ち、あだ討ち思想と遺伝子上の種保存との矛盾についての考察
テレビの刑事番組を見ていての感想。やや読書感想文的に。
内容は、2年前の交通事故にまつわる話。娘と孫を奪われた父親と将来をピアニストとして嘱望されていた娘が事故で指を切断され、自殺したという設定。結果的に敵をとり、逮捕されるが本命は果たして、そのことに対して理解される結末。何か合点が行かない感じがし、考えてみた。
まず、敵討ちは本能なのか?遺伝子的に必然的に生まれる自然な感情、あるいは動物的にもよおす欲求なのか?どうやらNOである。他の動物には無いし、人間の歴史でもほんの一時期の文化に過ぎないものと考えられた。
どんな身内のどんなことに対して敵討ち感情が生まれるのだろう?虐待によって亡くなった幼児に対して敵討ちがなされることは無い。つまり自分がとても愛情を注いだものを奪われたことに対しての反対感情による行動ではないか?所有欲侵害に対しての攻撃なのだろう。だとすると種保存で動く遺伝子とは関係ない。生存欲求と関連するのだろう。やくざが動く要因は面対か金と言われる。やくざにとって面対が無いことは存在そのものの否定であり、金が無いのと同じ意味があり、生存不可となるので、当然行動に出る。そのパターンはごく単純だ。愛する人を失うことでその人の生存さえ危うくなる時のみ敵討ちが成立するとすれば、成熟した社会になり、経済的にそういう状況じゃなくなり、また精神的にも支えがあるなら、敵討ちは文化的に廃れるはずであり、実際成熟したヨーロッパでは廃れていると考えられる。だから、現在の敵討ちは歴史的、社会的にある特徴を持つ構成員の一種独特な行動パターンであるといっても良い。それを普遍的なレベルに思考を移すと、死刑制度は成立しなくなのでは無いだろうか?